月夜の天使

「やっと来てくれたのね」
 男は身を竦めた。無人の廃倉庫へ忍び込んだ筈が予期せぬ先客に全身の血が凍るような心地でゆっくりと振り向いた。
「あぁ……あぁ、待っていたのよ。ずっとあなたを待っていたの……」
 目の淵に固まりかけた血を拭い、声の主を捜した。どこからともなく鼻をつく不快な匂いが漂ってくる。薄闇に目を瞠ると、窓から差し込む月明かりが闇の一角を切り取るように照らし出し、その中に黒い人影が蠢いた。影は左右に揺れ、くるりと身を翻し、踊り出す。細長い手足をしなやかにくねらせ、軽い足取りで床を駆け回り、弧を描く。片翼を捥がれた鳥が地で暴れ、もがいているようにも見える。
「私を連れて行って頂戴」
 影は立ち竦んでいた男の顔を覗き込んだ。
 黒いキャミソールのワンピースに黒いケープを羽織った、しどけない姿の少女だった。
 月の光を溶かしたような蜜色の長い髪。灰のように燻んだ色素の薄い瞳。
 灰——何故灰などと浮かんだのだろうか。男は先日見た親友の焼灰となった骨を思い出した。
 少女が羽織るケープには夥しい数の羽が縫い付けられている。黒い羽の中には黒くまだらに染まった白い羽も混じっていた。
 男は薄気味悪さを感じながら、少女の丸い瞳に吸い寄せられたように体が硬直した。
「素敵でしょう。私にはまだ羽根がないから、自分で作ったのよ。これでどこまでも飛べるわ」
「君が、自分で?」
 ええ、と少女は嫋やかに目を細めた。
 窓辺に餌を置いておくと鴉がくるから捕まえて羽を頂いたのよ。でも鴉は頭がいいから、分かるのね。私を嫌って、来なくなっちゃった。だから鳩の羽をインクで黒く染めたのよ。
 見ると傍らに無数の黒い塊が積み重なっていた。悪臭の原因はこれだろう。
「どうして、そんな……」
「だって羽がないんだもの」
 彼女の純粋な欲望を満たすために羽根を奪われた鳥達の死骸。玩具で遊ぶような無邪気さで羽根を毟り取る、罪悪とはまるで無縁かのようにあどけなく微笑む血に塗れた少女の姿が浮かんだ。
「私は悪い子だから。悪魔だから。閉じ込めておかなきゃいけないって、パパが。だから待っていたのよ。私が悪魔だというのなら、きっと仲間の悪魔が迎えに来てくれるって」
 少女は寂しさと照れ隠しが混じったような表情で視線を逸らせた。
 閉じ込められていると言うが倉庫に鍵はかかっていなかった。自分から出ようとせずに、来るともしれない異形を、自分と同じ無垢な残虐性を持つ魔物を、待っていたのだろうか。
「これは何なの」
 少女は徐に男が手に提げていた鞄に目を落とした。
「金だよ」
 親友の報復に、無謀にも奴らのアジトに潜り込み金を奪った。金が欲しい訳ではなかった。親友から巻き上げた金を取り戻してやりたかっただけだ。しかし、一人に多勢。殴られ、切り付け、切り付けられ、命からがら逃げ出してこの廃倉庫に辿り着いた。これからどうしようか、俺は何がしたかったのだろうか、俺はどうなるのだろうか、とぼんやり思案している最中に、少女の声が空白の時間に割り込んできたのだ。
「よく分からないわ。それは大切なものなの?」
「ああ、世の中金が全てさ。金があれば他人を救う事も出来るし、命だって買える。どこへだって行ける」
 男の半ば投げやりな言葉に少女の顔は期待と希望に咲き誇った。
「やっぱり私を迎えに来てくれたのね。おにいさん、私を連れて行って。遠くへ、遠い世界へ、私を連れて行って頂戴」
 海が見える小さな町の白い家、いや、彼女は深閑とした森の中の荘厳な城のような洋館が似合うだろう。
 悪魔などと、彼女には似つかわしくないと男は思った。天使のような眩い笑みを携えて少女は男に手を差し出す。男は少女の小さな手を握り倉庫の扉を開いた。
 月明かりの中、駆け出した二つの影が夜の街の闇に溶けた。
 遠くでサイレンの音が鳴り響いている。

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