西の空に朱く灼け蕩けた太陽が沈む。
 ひとつまたひとつと明かりが灯る豪華な邸宅が居並ぶ、森閑とした街路を、顔も服も血だらけの男が右脚を引き摺りながらよろよろと歩いている。男の眉の上には横筋にザックリと裂かれた傷があり、鮮血が溢れ瞼から顎までべったりと泥を塗ったように赤黒く、太い筋が流れている。服には、男のものか、あるいは傷を負わせた者へ抵抗した際に辛うじて負わせたであろう深傷の返り血か、カーキ色のコートにどす黒い染みを作っている。弱々しい足取りの男に冷たい北風は容赦なく吹きつけ、コートや髪を乱す。男は人目を避けながら、次第に重く、動きが鈍くなる体を引き摺り引き摺り、薄暗い小道に身を隠し、咳き込みながら壁に凭れかかると、ずるずると滑り落ちるように座り込んだ。
 深く息を吐き、荒い息を整える。
 随分と遠くまで来てしまった。
 出生の不幸を今更嘆いたところで俺が犯した数々の罪は許されるものではない。生まれた時から虐げられて生きてきた。だから身を守る為に他者を傷付け、奪い、陥れ、殺した。それしか生き延びる術はなかった。必然的に、薄闇の道を選び、ただひたすら闇雲に男は走った。どこかに救いの光があると信じて。いつかは報われると信じて。しかしそんなものは存在しなかった。一度闇に足を踏み出した者が光の世界を切望したところで叶わぬ夢だ。男の目の前には常に底なしの闇が広がっていた。今もそうだ。男は逃げる場所も、向かうべき場所も持たない。
 俺はこのまま、ここで、死ぬのだろうか。
 ……なぞと考えると、全身の力が抜け落ちた。男の疲れ枯れ果てた精神が、辛うじて繋がっていた最後の一糸が、フツリと擦り切れそうになった瞬間。
 男はピアノの音を聞いた。
 閉じかけた瞼の隙間から思わず視線を彷徨わせた。音は、背にした壁の向こう側から聞こえる。
 波のように、低音から高音を無辺に行き来する、繊細で、悲しげな旋律。トリル、アダージョ、カンタービレ。弱々しく、そして段々と強くなり、また消え入るように音階を揺蕩う。華やかに、優美に、哀れに。
 悲壮なピアノの旋律。追手は男に銃を向け、男は銃弾を何発も体に受ける。迸る鮮血。胸を抑えた手を広げると、毒々しいほどの鮮烈な紅。男は前を見据え、ゆっくりと、崩れ落ちるように倒れる。
 まるで映画のクライマックスのようだ。ピアノを背景音楽に、呆気なくも、劇的な死。
 男は吃々と喉を鳴らした。自嘲するように口の端を歪め、ブーツに突っ込んでいた煙草を取り出した。馬鹿馬鹿しい夢想をした、と意識を持ち直し、火をつけようとしたその時。
「何をしているの」
 男は驚き首を擡げ、振り仰いだ。
 窓から少女が顔を出し、不思議そうに男を見下ろしている。
「俺を見て、驚かないのか」
 男の言葉に少女が首を傾げると、肩で切り揃えた赤毛が揺れた。
「それは……血、かしら。怪我をしているのね。誰か呼んでくるわ」
「いや、いい」
「でも……」
「大した傷じゃない。それより、さっきのピアノは、君か?」
 少女は目を丸くし、次第に首まで赤くなり、ええ、と俯き加減で弱々しく答えた。
「どう言えば、いいんだろうな。素晴らしかった、とても」
「ありがとう……」
 そう、ため息混じりに言うと、少女は少し悲しげに目を伏せた。
 男はその様子を仰ぎ見ながら不思議に思った。男の言葉は少女にとって何か皮肉めいた言葉に聞こえたのかもしれない。
「ピアノは、好きじゃないのか?」
「好きよ。好きだけど、私は外で遊んでみたいわ」
「遊べば、いいじゃないか」
「ママが許してくれないわ」
 外の世界のことは知らないの。
 少女はいよいよ悲しげな顔で、呟いた。
「夜と食事以外の時間は、ずっとここでピアノを弾いているの」
「ずっと?」
「此処から出ちゃ、いけないの」
 閉じ込められてピアノを弾く事のみを強いられている少女。
 恨めしくも羨ましくも思った温かい世界に少女は存在している筈なのに、彼女は不自由を強いられている。皮肉だ。恨めしく思っていた世界にも絶望や孤独は存在するのだと男は思った。男が味わった屈辱や飢えとは違った孤独が。
 幸福な人間などこの世界には存在しないのかも知れない。人には人の絶望があるのだろう。
 少女はいつか気付くだろうか。自身が身を置く世界の理不尽を。大人の傲慢を。強制された、支配された、失った青春を。大人を、世界を恨み、憎み、いつかその檻を自らの手で打ち壊す彼女を見てみたいと男は思った。
「お嬢さん」
 男は掠れた声を出した。荒い息が、ゼエゼエと喉を鳴らす。体からどれだけの血が流れたのか。
「俺の為に、一曲、弾いてくれないか。とびきり美しく、華やかで、ドラマチックなやつを」
 少女は顔を上げ、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「えぇ、喜んで。誰かの為に弾くのは初めてよ」
 少女は部屋へ戻りピアノを弾き始めた。華やかに、優美に、哀れに。ピアノの旋律は薄闇の空へ流れ、溶ける。
 どこにも逃げる場所はない。
 向かうべき場所もない。
 しかし、行きたい場所ならある。
 男は背を壁に預け、空を仰いで目を閉じた。ピアノを背景音楽に、穏やかに…………

タイトルとURLをコピーしました